本当にあった約100年前の話。※平成最後に、90歳のおじいちゃんにインタビューしてみた。

 

こんばんは、カメレオンです。

今年の年末年始は3年ぶりくらいに大阪の実家に帰りました!

なぜわざわざこんな寒い年末年始に帰るのか…。

その理由は、ここ最近入退院を繰り返している私の実のおじいちゃんに会うためです。

おじいちゃんは今年2019年で91歳になります。

とても頑固で、小さい頃は私が何かうるさいことをすれば、私たちの世帯が住んでいる棟まで来て、叱られたりをよくしましたし、

親戚や父が亡くなった時には、縁起が悪いと言われ、1ヶ月間位は大好きなピアノを弾くと辞めるように言われました。

友達のおじいちゃんは優しいのに、何でうちのおじいちゃんはこんなに厳しいのかなと、昔の私は思っていました。

 

それもこれも、誰かが言えば、おじいちゃんが産まれてから現在まで住んでいる場所が、人口100人程度の狭い村だったからなのかもしれませんし、

はたまた、戦争中に10代の青春時代を過ごした戦火人だったからかもしれません。

とにかく、今思えば、あまりに自分が暮らしてきた時代と、おじいちゃんが暮らしてきた時代は違ったのだし、呑気な孫にしっかりした人間になって貰わないといけない、そういう愛だったんだとはっきり分かります。

だけど悲しいことに、私はそんなおじいちゃんとは、20歳を超えるまではしっかりと会話をした記憶がほとんどありません。(なんというクソ孫…)

 

昔どんな幼少期を送っていたのか、実家のあるこの村でどんな生活をしていたのか、若い頃はどんな仕事をしていたのか。

私は全く知りません。

 

だけどここ最近はおじいちゃんにもボケが始まり、身体も随分縮こまってしまいました。

そして、昔と比べ物にならないくらい優しくて丸いおじいちゃんになりました。

そして、それに比例し、病院に通院する頻度も増えてきました

更に2018年に入っておじいちゃんが度々入院するようになり、ふと思い始めたのです。

小さい頃は聞く耳を持たなかったおじいちゃんの昔の話。

おじいちゃんから聞けなくなる前に、聞いておかないといけないのではないか、と。

そう、なんだか重要な物を無視し続けている気がしてきたのです。

 

そんな直感的な感覚を覚え、

今回予定していなかった、約3年ぶりに年末年始に日本に帰ることにしたのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

※以下の話は私が2018年元旦に、おせちを家族2世帯で食べながら聞いた、おじいちゃんの実際にあった話です。

聞いたことをセクションに分けて記載していきます。

 

 

 

 

 

 

 

 

結婚も全て村民同士。親戚だけが住む村。

 

おじいちゃんは生まれてから現在まで、この村から住まいを変えたことはありませんでした。

おじいちゃんもその祖先も、そして他の村民の皆さまも、ずっとこの小さな村に暮らし続けている方がほとんどです。

結婚も村民同士の内輪で行われ、それがその時代の一番安心なやり方でした。

なぜなら、「知っている人なら信用できる」からです。

違う他所の土地出身の人との結婚は、おじいちゃんの時代まではほとんどありませんでした。

おじいちゃんも親戚だったおばあちゃんと結婚しました。

みんな顔見知りで親戚で構成される村、助け合って生活していた、そんな村でした。

 

 

戦時中の農家の暮らし

 

おじいちゃんが住む村は所謂農家の村でした。

戦争前はもちろん、戦争中も皆んな野菜と米を作って野菜中心の暮らしをしていたそうです。

戦争前は漁港の方から魚が送られてくるので、魚は魚屋から買っていました

昔は、『肉』は穢らわしい物と云われ、神様が居る家の中で食べることは宗教上できませんでした。

肉を食べる時は、軒先に出て食べる、そんな風習でした。

戦時中は肉も魚も入手しづらくなり、自分たちで農作して取れた野菜と米を食べていました

(ちなみに、母方の祖父は大阪市内の商人の子だったため、戦時中食料は配給だけ。

食料に苦労したそうで、農家の方がこの時代は幾らかましだったそうです。*記事最後に詳細)

そして、戦時後の高度成長期までは、道は全て土面。畑や田んぼには農牛が沢山おり、

そのせいか、匂いも衛生面も今に比べれば良くなく、天然痘(おじいちゃんは疱瘡と呼んでいました)にかかればもう治らないのが常識だったそうです。

 

 

 

 

 

戦火に見舞われなかった村・疎開先

 

大阪の端っこ、かなりの田舎の村だったため、戦時中は多くの子供達が市内から疎開に来ていました。

その中に朝鮮の方も混ざっていましたが、差別なく子供は子供同士で遊んでいたそうです。

おじいちゃんはその頃もう働ける年齢だったため、大阪市内まで工場勤めをしに行っていました。

ちなみに、その中で一度空襲に遭い、戦火を逃げ回った経験があるそうです。

 

しかし幸い、おじいちゃんが住む村では空襲はありませんでしたが、大阪市内から飛んでくる米軍機がよく村の上空を通っていました

その時には一家に一台ある裸電気に、戦争映画などでよく見る黒いカバーを被せて、光を消しして気付かれないよう潜んでいました。

何度か、爆弾又は部品の使い捨てた何か(?)が、米軍機から村を囲む山に捨て落とされていたそうです。

また、比較的村に近い工業街が夜空襲に遭った時は、昼間のように光が点っている様子が山越しに見えたそうです。

(その時は本当に怖かったと83歳のおばあちゃんが言っていました。)

ちなみに、おじいちゃんのお父さん、つまり私のひいじいちゃんは太平洋戦争で兵隊となって戦死しています。

 

 

 

 

戦後、道路が村を多分割する

 

戦後、一本の細い山道しか通っていなかった村も次第に整備される様になり、新しい道路がたちまち開通されました

その中で、村のあらゆる部分でも整備が始まり、おじいちゃんの一家は現在住む家を建てるまでに2回立ち退きを余儀なくされました

村にはおじいちゃん一家が代々持つ土地が何箇所かありますが、道路開発により土地が4分割されてしまったり、その他にも、開発に伴い村の中で何回か引っ越ししなければいけなくなった方達も少なくありませんでした

そしておじいちゃんにとって今の家は3家屋目で、これが初めての瓦屋根だそうです。

ちなみに昔は、茅葺の屋根が普通で、瓦屋根は『ええとこの家』しか建てられない、富の象徴でした。

村民同士で差別さえありませんでしたが、今より貧富の差が目に見えてあり、言葉づかいもお金持ちの『ええとこの家』と庶民とでは違ったそうです。

(おじいちゃんもおばあちゃんも、自分と同じ庶民の家の友達と、いいとこ出身の友達とでは言葉遣いを変えていたそうです。)

おじいちゃんによると、昔の人が生き返ったら、村の風景も生活も変わり過ぎてびっくり転げる、と言っていました。

それほど、たった90年そこらで時代が変わった、ということなのだと思います。

 

 

 

 

 

一次情報を集めると、チャレンジへの一歩を踏み出せる。

 

今思えば、空襲に遭った話は、幼少期の頃からおじいちゃんに何度もされてきましたが、ただの暗い昔の話だと思っていたため、随分蔑ろにしていたなぁ、と今思えば反省するばかりです。

本当はおじいちゃんも、この頃の今では考えられない程大変だった話を、気楽に反抗期を迎えている孫たちに聞かせて、知って欲しかったのだろうと思います。

 

私は平和学習などで勉強する情報でしか、戦時中に起こった出来事を知ることはできませんでしたし、今を生きる子供達も、それは同じ状況だと思います。

だからか、戦争前後の生活の話を、どこか昔話のように捉えてしまう様に思います。

しかし、それらの時代は今生きている自分のおじいちゃんやおばあちゃんが実際に経験してきたものです。

 

だけど、戦争中に生きていた人が高齢になり、どんどん1次情報が聞けなくなってきています。

そうなれば、昔話は本当に昔話になってしまい、

私たちのような若い人が、今のこの平和な時代は一生続くと思い込んでしまうことが怖いです。

 

しかし、今暮らしているこの時代は永遠と続きません

大企業に勤めても給料は自動的に上がっていかなくなりますし、むしろボーナスも少なくなっていきただ一生懸命会社勤めするだけでは先行きは安泰ではありません

昔の人は時代の変化に合わせて生活を変えていかないと、生きられませんでした

生きる術を探りながらここまで繋いできたのです。

同じように、昔の時代が作り上げたシステムに執着せず、今度は私たちがどんどん新しい時代のやり方にチャレンジしていく番なのです

そうでなければ、当然やり方が時代に合っていかなくなり、生活がどんどん苦しくなっていきます

 

いつの時も『時代』は流れているのですから、それに合わせて新しい生きるためのシステムをその時代時代の人が作っていかないといけないと思います。

 

しかし、その感覚を身に沁みて体に感じさせるには、今の時代を作った先代の生の声を聞かないといけない、そう思います。

つまり、一次情報を集めること、なのです。

自分の身近な人から伝えられる一次情報は新鮮で、どんな本や写真よりも自分をチャレンジへと動かすトリガーになります。

チャレンジすることが、自分の未来を作っていくことなのだと、実感できるのです。

もし、今おじいちゃんやおばあちゃんがご存命であれば、昔の話をぜひ聞いてみてください。

何だか心の芯がすっと体を突き抜けていく感覚を覚えるような、そんな新鮮で忘れられないような話を聞けるかもしれません。

 

 

 

 

 

 

 

おまけ

 

ちなみに私の母方のおじいちゃんにも話を聞いたところ、全く違う生活を、戦時中送っていたことが判明しましたので紹介します。

大阪市内で、商人の家族に生まれ、戦時中は商売を中止せざる負えず、食料に大変困ったそうです。

農家のように自分たちで自給自足ができず、米が無いため、トウモロコシの粉をアルミの弁当箱に入れ焼いた物をよく食べていたそうです。

食糧難の中生きていくのに大変ではありましたが、幸運なことに、住んでいた場所が軍事工場からは離れていたため、

都会にも関わらず空襲からは免れ、警報が出れば防空壕に入って身を潜める程度だったそうです。

しかし戦後になると、戦争前の物や商売網は全て消えてしまっていたため、

同じ商売を再開することもできず、長い間ひもじい生活を送ったそうです。